天保12年(1841年)、初世西川鯉三郎は西川流の初代家元となり、その基礎を固めます。その年、老中水野忠邦が政治改革を行い、翌年には倹約令が出ています。江戸は、当時の芸能人にとって住みにくい場所になっていたようで、名古屋で西川流が栄えたのは、案外こうしたところにも原因があったのかもしれません。
西川流は日本舞踊の五大流派のひとつとよばれ、日舞界でも初期のころに誕生した流派です。
最初に“西川流”が歴史に名をみせるのは、約300年前。初世西川仙蔵は能の囃子方から歌舞伎の鳴物師になり、やがて踊りの振付師に転じ、宗家西川流を創設したといわれています。二世の時代、18世紀から19世紀にかけて、西川流は歌舞伎との深いかかわりをもちます。現在に伝わる「鷺娘」「吉原雀」「関の扉」などもその当時の作品です。
そして四世の時代。高弟であった西川仁蔵は名古屋にわたり、別派をたて、名古屋西川流の家元として初世西川鯉三郎をなのります。また兄弟弟子の芳次郎も宗家をはなれ、後に寿輔をなのり花柳流を興します。
初世鯉三郎は名古屋において新たな舞舞踊人生を歩みます。そして大胆に能、狂言の長所をとり入れ、独特の作風を生み出してゆきました。
西川流は日本舞踊の五大流派のひとつとよばれ、日舞界でも初期のころに誕生した流派です。
とりわけ舞踊百番衣装附、舞踊譜を作り、後世に伝えたのは、大きな功績とされています。初代家元没後は、継承者がいなくなり、理事会で流儀を守るようになりました。
その高弟の一人、石松の孫、司津と結ばれたのが、歌舞伎界で“天才役者”と呼ばれた六代目尾上菊五郎の門弟、尾上しげる─西川茂でした。
尾上しげる(後の二世鯉三郎)は東京出身。歌舞伎の大部屋の子役からスタートし、その実力を六代目尾上菊五郎にかわれて名作「鏡獅子」の胡蝶役に抜てきされます。それをきっかけとして、様々な歌舞伎公演出演後、六代目の勧めもあって名古屋に居をうつします。昭和16年、尾上しげる─西川茂は西川流二世鯉三郎を襲名、家元になります。
こうして西川流の第二期黄金時代が始まります。
昭和20年8月15日、第二次世界大戦の終戦のあと、まだ焼け跡の生々しい中、人々のすさんだ心を慰めるため、家元をはじめとした舞踊家達が街頭で踊りを始めたというエピソードも伝わっています。
そしてそれがきっかけとなり「名古屋をどり」がスタートします。第一回目は戦後すぐ、昭和20年。舞踊の長期公演という、ほかにはないこのスタイルの舞踊会は、会場は変わっても毎年、名古屋の秋の風物詩として多くの人々に親しまれています。
また、西川流独自の「舞踊劇」が始まったのもこの「名古屋をどり」から。演劇性をもつだけではなく、ドラマとして、先入観なく楽しめる、感動をあたえる作品。小さい世界に引きこもらず、あくまでも「観客」を意識する芸能を追究する姿勢は多くの人々の共感を呼びました。
二世鯉三郎は友人、仲間に恵まれ、さまざまな分野の才能と共同で多くの作品を作り上げました。「名古屋をどり」をはじめとして、数々の舞踊会に参加したスタッフ群を列挙しますと、川端康成、有吉佐和子、高見順、木下順二、木下恵介、三島由紀夫、水木洋子、水上勉、東郷青児、清元栄次郎、野沢喜左衛門、杵屋六左衛門、団伊久磨と枚挙にいとまがありません。
演劇味あふれる舞台、踊りに対する人一倍の情熱、人なつっこい性格もあって、この西川流は中部圏だけではなく、次第に全国規模の流派になってゆきます。
70年余りの生涯の中で、約3000曲もの作品を手掛けてきた二世鯉三郎は昭和58年7月31日、世を去りました。
そしてわが国有数の日本舞踊の大流派西川流の三世家元を継承したのが二世鯉三郎の長男、西川右近です。若くして作舞を多く手掛けた右近。日本舞踊のみならず東宝歌舞伎出演をはじめテレビ、ラジオなどに企画・出演、新聞などにも執筆。また多くの芸能人のステージング、振付を行ってきました。
家元継承後は「名古屋をどり」の主催のほかにも2度にわたるアメリカ公演を実現。1ヶ月近くという、一流派では異例の大規模な北米公演でした。また 1985年にはモナコ公国のキャロライン王女主催の舞踏会に招かれ公演。そして現在の西川流は、全国規模、名取数約5000人を誇る大団体に成長しました。
平成11年、1999年は流祖の没後100年にあたり、また二世の17回忌にあたります。7月には西川流創流初の全国大会が名古屋において開かれました。出席者は西川流門下約1200人、大規模な大会になりました。“大団体といっても、お互いが顔も知らないようでは団体とは言えない。少しでも皆と知りあいたい、そして門下同士にも仲良くしてもらいたい”と開かれた大会でした。
江戸期の流祖から、代々の家元がそうであったように、21世紀を目前に控え現家元・西川右近も、常に日舞と時代のかかわりを念頭におき、つねに新しい挑戦を続けています。
The history of ODORI (dance) goes back many centuries. Odori shares same origin as kabuki witch has started about 400 years ago.
Nishikawa-ryu style of classical Japanese Odori was established over 220 years ago in Edo (now Tokyo) when Japan was still governed by a shogun whose lords served him as loyally as they were served by their samurai. About 60 years later, Koisaburo Nishikawa (1823-1900), a dancer who had studied the Japanese arts of Noh and Kyogen moved from Tokyo to Nagoya. There he combined techniques of classical Japanese theater to create a novel style of Japanese dance.
The Nishikawa School became more widely known after the second Koisaburo Nishikawa (1909-1983) became its director. Koisaburo used his training as a Kabuki actor to further refine the Nishikawa style of dance. During the course of his lifetime he created over 3000 dances and established an annual dance festival, the Nagoya Odori. Through his efforts, the performances of the Nagoya Odori have become as familiar to Japanese audiences as popular stage musicals and Kabuki works.
On the death of the second Koisaburo, his eldest son Ukon Nishikawa (1939-) succeeded him as headmaster. Under his guidance the school has become one of the new works annually but has broadened the scope of Odori by taking this unique Japanese art form to western audiences. The Nagoya Odori continues to delight viewers with new and original Japanese dance pieces as well as the great classical works.
The Nishikawa School -- heart of traditional Japanese dance -- is located in a quiet neighborhood near the Yamazaki river where it serves as a home base for more than 50,000 student throughout Japan.
第一回公演は、昭和20年9月24日から3日間、名古屋宝塚劇場で行われたのが最初で、中心街が焼け野原となった終戦直後。当時の記録によると、全国的にみても戦後初の舞踊公演だったといいます。当時の新聞には“娯楽に飢えた人々がどっと詰めかけ、超満員の盛況”とあります。
昭和23年からは会場を御園座に移し、公演日数も年毎に増えて昭和30年前後は22日間、名古屋の名物として定着、大変な人気を博しました。発足から約半世紀。東西の名物おどりが次々と消えていくなかで現在も10日間の公演を継続、多くの人に親しまれています。
名古屋をどりが他流派からも注目され、評価されてきたのは日本舞踊を”興行”として定着させたことと新しい作品を生み出す”発進基地”として創作舞踊を数多く作り出してきたこと。大きく分ければ、このふたつ。そして、この公演の一番の功績は舞踊の大衆化。日本舞踊のよさ、楽しさを広い客層にアピール、この基本姿勢が興行として成功させることにつながったともいわれています。 大衆化を図るには、新しい魅力を盛ること。そのためには創作舞踊が必要と第1回以来、毎回新作を柱にしてきました。 具体的な特徴としては、劇的要素を加えた”舞踏劇”を数多く手がけてきたことで、これは最初の主宰者、二世家元西川鯉三郎から現在の三世家元西川右近に至るまで不変。これが西川流ばかりでなく、東西の舞踊界にも刺激を与え、日舞の新しい方向を探る基地ともなりました。 他の舞踊公演と比べて際立っているのは、新しい作家、スタッフを数多く登用してきたことで高見順、木下順二、川端康成、北条秀司以下、谷崎潤一郎、吉川英二、三島由紀夫、有吉佐和子、久保田万次郎、木下恵介、田中青磁、花登筐、水上勉、鷲見房子など枚挙にいとまがないほど。最近では松山善三が十余作執筆、また久世光彦、市川森一、鴨下信一など、映像界の才能が参加しています。
日本において「おどり」の歴史の始まりは、神話。遥か古事記の時代にさかのぼります。アマテラスオオミカミが世をはかなみ岩戸にこもり、アマノウズメノミコトがその前で踊り、その踊りをはやし立てる声につられて岩戸を開けたところをタジカラノミコトによってこじ開けられ、世界に明かり戻ったという、あの有名な話です。
600年以上前に中国より芸能が日本に流れ、舞楽や雅楽などの宮廷の芸能として定着しました。また農民の芸能である田楽でんがくや曲芸の猿楽を洗練させたものが能や狂言です。これらも上流階級によって親しまれた芸能となりました。
この阿国という人物は、男装に刀を差し、首からは当時異教とされていた南蛮渡来の十字架を首からさげて踊った、とあるので当時ではかなり過激な人物であったと思われます。その評判の阿国を中心に作られたのが「阿国かぶき」といわれるものです。これがいわば歌舞伎と日舞の元祖です。カブキとオドリは同じ先祖を持つのです。
阿国を真似して各地で色々な“かぶき”の一座が出来たましたが、真似たのは主に遊女。当然、風紀の乱れを呼ぶ、と禁止されました。 そして現れたのが、元服前、16歳以下の男の子で結成された「若衆かぶき」。しかし、じきにこれも風俗の乱れにつながると禁止されます。そして現在の歌舞伎に通じる「野郎かぶき」が生まれました。現在、女性は舞台に上がれない歌舞伎ですが、もとは女性によって築き上げられたものなのです。
当時は「傾き」と書かれていた歌舞伎。「傾く」という言葉には異様なもの、奇怪なもの、という意味。つまり歌舞伎というものは当時かなり過激なものだったのです。 またこのころ、日本の芸能界では大事件が起きます。琉球、現在の沖縄から渡って来た蛇皮線を改造した三味線の登場です。それまで弦楽器の少なかった日本では、三味線という、あらゆる音を出せる楽器の登場で、日本の音楽はいっそう可能性を持つことになります。そして三味線は、かぶき踊りの中心的楽器となります。これまで笛や太鼓に謡うたいをのせて演じられた能や狂言とくらべて、エキゾチックでカラフルな音色は瞬く間にブームを巻き起こし現在に伝わる日本のメロディーが生まれます。
「かぶき」はもともと踊りが主体でした。その歴史を歩むにつれ筋ができ、ストーリーを持ち、演劇的になっていきました。しかし踊りは踊りとしても上演され現在でも歌舞伎役者はすべて日本舞踊を習います。
芸術が成熟してゆくと次第に枝分かれが始まるものですが、歌舞伎の振り付けを担当していた者たちが、自分たちでも弟子を持ち、発表もするようになったのが日本舞踊独自のあゆみ出しといえます。女子禁制の歌舞伎と違い、日本舞踊界は女性が多数を占めます。